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不思議なえにしの糸はとぎれることなく
2009/08/27(Thu)
あるときには、「偶然のいたずら」という表現だったり、
また、あるときには、「不思議な縁」などと呼ばれたり、
ときには、「運命」だと信じられたりもする。


どの表現がほんとうなのか、
わたしにはわからないのだけれど、
あとからふり返ってみると、


たしかに、いくつかのできごとが、
たがいに関係し合い、影響を及ぼしあって、
自分の人生にかかわっている
と感じることがあるものです。


そのいくつかのできごとは、
えにしと呼ばれる糸によって、
自分の過去と今とを、そして、ことによると将来をも
結びつけているのかもしれません。


最近、そんなことを感じさせる
できごとがありました。


わたしを今のわたしに導いた
えにしの糸があるとすれば、
それはまさに、
そのかけがえのない糸の1本であるにちがいないのです。


それは、先日のこと……。


高校時代の英語の先生からメールを受けとりました。
2年がかりで取り組んできた
フランク・エバンスさんの本の翻訳本が
出版されたというメールでした。


故フランク・エバンスさんは、わたしの出身の町と
イギリスのウェールズにある町アベリストゥイスが
友好関係を築くきっかけを作ってくれた人物です。


その友好関係によって両町に友好協会が設立され、
わたしは友好親善の交換留学生の第1号として、
イギリスへやってくることになったのです。


エバンスさんは戦時中に捕虜になって収容された
わたしの出身の町での捕虜生活の日々をつづった本を出版され、
収容地であったニッケル鉱山で亡くなった方々の
慰霊碑を建てられました。


その後、エバンスさんの体験と
わたしの出身の町との交流のことは、
日本の高校の英語の教科書にもとりあげられました。


(その英語の教科書の内容は、このブログでも、
わたしたち一家の「はじまりの物語」の中の
はじまりのはじまり」のページでご紹介しています)


わたしの出身の町での捕虜体験をつづったエバンスさんの本、
「Roll Call at Oeyama」は、はじめウェールズ語で、
そして、英語でも出版されたのですが、
日本語への翻訳はありませんでした。


P1100927a.jpg


これが、フランク・エバンスさんの本「Roll Call at Oeyama」
わたしがアベリストゥイスにいたときに、
エバンスさんから贈られた英語版です。


そして、こちらが、
わたしの高校時代の英語の先生だった
糸井定次先生によって翻訳され、
今月、出版された日本語版です。


憎悪と和解の大江山―あるイギリス兵捕虜の手記憎悪と和解の大江山―あるイギリス兵捕虜の手記
(2009/08)
フランク エバンス

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翻訳本の出版を知らせる
糸井定次先生のメールには、
新聞記事が添付されていました。


それは、
この本と翻訳者である先生のことが
とり上げられている
毎日新聞の地方版の記事でした。


奇遇なことに、
わたしが出身の町から交換留学生の第1号として
アベリストゥイスに送られてくることになったときにも、
毎日新聞の地方版にのせてもらったのです。


そして、そのわたしが、今度は、毎日新聞のサイトで、
海外生活奮闘記」を担当させていただくことになり、
今、ちょうどアベリストゥイスの大学の英語研修コースの日々のことを
書いているところなのです。


もしかすると、まったくの偶然なのかもしれません。
ですが、これらのできごとは、みんな、
不思議な縁でつながっているかのように感じられます。


そう言えば、
ほんの3か月前にも、
こんなことがありましたっけ……。


わたしがはじめてイギリスへやってきたのは、
もう20年近くも昔のことになってしまっているのに、
エバンスさんが本を出版された30年前、


いえいえ、それ以前、
エバンスさんがわたしの出身の町で
捕虜生活を送られた第2次世界大戦の戦時中にまで
たどることのできるえにしの糸は、


60年以上たった今でも、
とぎれてしまうことなく
紡がれつづけているように感じられます……。


そのことを、故フランク・エバンスさんに
伝えることができたらと思います。
エバンスさんの本の日本語翻訳が出たことを知らせることができたら、
エバンスさんはどんなに喜ばれることだろうと思います。


もしよかったら、
英語の教科書の中の架空のではなく、
わたしとエバンスさんとのほんとうの出会いの場面、
こちらを読んでみてください。


あのときのエバンスさんの手のぬくもりを
人なつっこいほほ笑みを
わたしは一生忘れることはないと思います。


そして、今、あらためて、
エバンスさんが本の中に書きつづった
ご自身の体験から得た平和へ願いを
将来に伝えていかねばならないと思います……。





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英語の授業がはじまった
2008/08/12(Tue)
今日のお話は、わたしがはじめてイギリスへやってきて、
イアンと出会った夏のできごとを書きつづっている
「はじまりの物語」の中のひとつです。
最初から読んでみようと思われる方は、こちらから……。



英語研修コースの授業初日の朝、
掲示板に貼り出されたクラス分けの名簿で自分のクラスを確認し、
指定された教室にむかった。


先生の名まえは、ゴールディ・ギボンズ。
直毛のブロンドを化粧けのない丸顔のてっぺに無造作に結いあげた
ぽっちゃり体型の気さくで豪快な雰囲気の女性だった。


ふだんはサリー州の語学学校で英語を教えている。
夏のあいだだけこの大学の英語研修コースの先生をしながら、
ウェールズ観光を楽しもうとワーキングホリデーにやってきたのだった。


ゴールディだけでなく、所長のグラハム・ペリー、
その直属のバージニア・ウェスト以外のクラス担任はみんな
夏休みのコースだけの臨時雇いの先生たちだった。


このあけすけでまったく飾り気のないゴールディと、
知的でいつも落ちついた笑みをうかべているバージニアには、
ブロンドの髪以外の共通点は見いだせないようだったけれど、
2人は独身で、しかも同い年らしかった。


どこからか彼女らの年齢はつきとめてきても、
クラスのだれもわたしの年齢は聞いてこなかった。
ゴールディとバージニアだけではなくわたしも同い年だと知ったら、
まちがいなくわたしも休み時間の話題にのぼっていたにちがいない。


当時、わたしは年甲斐もなく長い髪をみつ編みにしていた。
けれども、そればかりではなく年相応の人生経験なりものの考え方を
身につけていなかったからでもあり、わたしの口から出る英語が
あまりにもたどたどしく幼稚なものであったからなのだろうけれど、


わたし自身はクラスの中では自分が最年長なのではと思っているのに、
どうやら最年少だと思われているふしがあった。
とは言え、日本の外に住む人々は人とつき合うときに
日本のような年齢によるわけへだてをしないものだということを知った。


クラスの学生にはあきらかに年齢の大きなばらつきがあったけれど、
先生をふくめておたがいをファーストネームで呼び合い、
目上とか目下といった意識の感じられないのが新鮮で心地よかった。


クラスメンバーには顔見知りもいた。
コートマウワーの同じブロックの住人である
弁護士志望のタイ人のベンとインドネシア人のユウォノゥさん。
ユウォノゥさんもベンと同じく秋から大学の正規の学生になるのだと聞いた。


専攻は図書館学で新婚の奥さんを国に残しての留学なのだった。
新婚にしては縮れた毛髪に白いものもまじっている小柄の
しっかりと色の黒いおだやかでおとなしい人柄だった。


その他のクラスメートは寮は同じでも同じブロックではなかったので、
顔は知らなかった。
掲示板でひかえていおいた名まえと顔を一致させようとがんばる。


大柄でブロンド、青い目をした華やかで明るいドイツ人ぺトラ。
細身の長身、カリーヘアでクールな雰囲気をもつスペイン人カーラ。
大柄で黒い髪にブラウンの目、
ひかえめな感じのギリシア人アナスターシア。


1番背が高くて目だつけど物静かなタイプのスペイン人ルイス。
黒いくせ毛におだやかな笑みをうかべているキプロス人、
名まえも楽しいカーラランボゥス。
細身でブラウンの髪に空色の目をギョロつかせているドイツ人アディ。


テキストを読解する授業には何とかついていけたけれど、
リスニングはまったくお手あげだった。
さらにディスカッションにいたっては、
よりによって初日から国際問題なんかをディスカッションさせる。
最初から最後までひと言も口をさしはさめなかった。


だとしても、


「ミヤコの声が聞こえな~いっ!」


だなんて声を張りあげなくてもいいじゃあないか、ゴールディ。
たぶん、わたしはクラスの中で1番めだたないことで
1番めだっていた。


そんなわたしも文法の時間だけはひと息つくことができた。
能動態と受身の文を過去、完了、未来形に書きかえる。
つい先ほど流暢な英語で喧々諤々(けんけんがくがく)の議論を戦わせていた
クラスメートたちがどうしてこんな問題に悪戦苦闘しているのか。
さっぱりわけがわからなかった。


結局、わけがわからないまま午前中のクラス別の授業は終わった。





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午後は、海辺の街へ
2008/07/15(Tue)
午後は、さまざまな催しや小旅行などを計画し、
お世話をしてくれるソーシャルオーガナイザーのリンダが
学生の集団をひき連れて丘のふもとにひろがる海辺の街を
案内してくれた。


その学生たちの中には、午前中の自己紹介のセッションで
顔を見かけたイラク人の2人組みもまじっていた。
彼らのほかに中東系の顔立ちの学生は見あたらなかったし、
細身の背格好が同じでいつも2人で連れだって歩いているので
よく目立つ。


20代の半ばの年恰好といい背格好や体型のみならず
鼻の下にふさふさとたくわえられたムスタッシュもおそろいだったけれど、
間近で見るとおたがいの印象はずいぶんとちがっていた。


若かりしころのオマー・シャリフの面差しのあるひとりは、
深く青く澄んだ目をしていた。はにかみ屋らしく口数は少ない。
自分の名まえをフセインと自己紹介した以外は口を開くことはなかった。


ブラウンの目に人なつっこい笑みをうかべているもうひとりは、
英語が達者なうえにかなりのおしゃべりだった。
だれかれなく話しかけているその表情があろうことか
ロックバンド「クィーン」のフレディー・マーキュリーに似ている。


しかも、わたしが中学生のころからずっとファンだった
フレディー・マーキュリーの顔の造作を整えると
このようになるのではなろうかと思われる顔だちなのだった。


名まえは、サマル・カリン。
なんとも愉快そうにムスタッシュをうごめかせながら、
おしゃべりする声は、ときにひるがえって妙に高くなり、
とても音楽的とは言えなかったけれど気にならないはずはなかった。

 
大学のある丘の上から海辺の街へくだる道中で、
ほんの少しだけれど言葉をかわすことができた。
なじみのないわたしの日本名を覚えてくれただろうか。
そんなことも、ちょっと気になっていた。


丘をくだりきったところから街なみがはじまっていた。
絵に描いたような古めかしい石造りの家々が
行けども行けどもとぎれることなく軒をつらねている通りを
排気ガスをまきちらして通りすぎていく車があって、
何だか風景になじまないような気がした。


というか。映画のセットか遊園地のおとぎの街と見まごうばかりの
この街自体がはりぼてではなく、実在する街なのだということが
どうにも信じがたい気がするのだった。


目抜き通りの家々の1階部分、あるいは全体は店舗になっていて、
レストラン、カフェ、ギフトショップ、本屋さん、薬局に銀行、
スーパーやパン屋さん、それから、ハンバーガーショップや、
中華料理のテイクアェイの店もあった。


にぎやかな目抜き通りをぬけると海岸ぞいのプロムナードに出た。
人口1万人ばかりのアベリストゥイスは大学の町でもあるけれど、
海辺のリゾート地としてもその名を知られている。
シーフロントには高いポールの上で各国の国旗がはためき、
その足もとにはアイスクリームやお菓子を売るスタンドが建っている。


潮の香りをふくんだ海風をほおにうけてプロムナードを散歩したり、
青く凪(な)いだ海に面するベンチに腰を落ちつける観光客のまばらな姿がある。
ビーチでは、やさしい目をしたロバが子どもを背にのせて、
ゆったりとした足どりを砂にうずめるようにして運んでいく。


海に面して建ちならぶ凝った造りのホテルやゲストハウスがつきると、
ウェールズ大学の中でも (ウェールズ大学はウェールズ各地に分散していて
この町にあるアベリストゥイス校とその他8校の分校からなっている) 、
最も古い建物オールドカレッジが堂々とした姿をあらわした。
塔の壁面にはめこまれている巨大なモザイク画がひときわ人目をひく。


さらに、そのむこうには古城の廃墟が横たわり、
翼を広げて飛翔する女神像をいただく戦没者追悼の碑が建つ足もとから
はるかな大西洋の大海原がはじまっているのだった。


その場所で、英語研修の学生たちのツアーは解散となった。
思い思いの方角へ散っていく学生たちの中に、
サマル・カリンとフセインの姿もまじっていた。
肩をならべるふたりの姿はじきに見えなくなった。


何人もの学生たちと楽しげに言葉を交わしあっていたサマル・カリンが、
自己紹介に四苦八苦しているわたしと明日からの英語の授業で
同じクラスになるなんて万が一にもないだろう。
でも、学内のどこかで顔を合わせることがあったら、
そのときには、もうちょっと話ができるといいのになと思った。


わたしは方向音痴で街のどの通りを歩いてやってきたのか
まるで覚えがなかったものの大学へ帰る方向だけはわかっていた。
海を背にして坂道をのぼっていけばいい。


大きな一本道にぶちあたり、ひたすらその道をのぼっていくと、
見おぼえのある大学と学寮の建物が見えてきた。
こうして、わたしは学寮コートマウワーのF棟にある
自分の部屋へ無事に帰りつくことができたのだった。



その夜のことだった……。
夏の長い日が水平線のむこうに没して、
あたりがひっそりとした薄闇につつまれようとするころ、


共同キッチンから自分の部屋へむかうわたしの目の前を
人影がよぎった。
その人影もわたしに気がついたらしく足を止めた。
そして、


「ハ~イ。ミヤコ~!」


と陽気な声をかけてきたのは、
ムスタッシュの口もとに無心の笑みをうかべるサマル・カリンだった。
わたしの名まえ、覚えていてくれたんだ。


でも、どうしてまた、サマル・カリンがこんなところに……?
と思って見送る後ろ姿はわたしのとなりの部屋の前で立ち止まり、
ドアに鍵をさしこむと、そのドアのむこうに消えたのだった。





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クラス分けの英語能力テスト
2008/07/05(Sat)
初日の朝、学寮から英語研修のコースの行われる大学の講義棟まで
ミチコさんが案内してくれた。テルヨシさんの姿は見あたらなかった。
ミチコさんとテルヨシさんは、すでに6月からコースをはじめていて、
テルヨシさんの朝が遅いのはこの日にかぎったことではないらしかった。


まずは、7月のコースに出席する学生たちが大きな講義室に集められた。
教壇に立って何やら説明をはじめたのは、肩にかかるブロンドの髪をもつ
まだ20代の後半かと見える姿勢のきれいな魅力的な女性だった。


彼女の名まえは、バージニア・ウェスト。
英語研修を行っているイングリッシュ・ラングイッチ・ユニットで、
所長のグラハム・ペリー氏を補佐する第2番めの地位にあったのだけれど、
実質、彼女が英語研修コースの運営をになっていた。
(ということは、あとで知った)


教壇に立つ彼女の容姿、どこかで見た覚えがあるような――。
ツンととがった形のいい鼻先が、今にも、ぴくぴくと動きだしそうだ。
そうだ! アメリカのコメディードラマ「奥様は魔女」のサマンサ。
サマンサをもう少し若返らせてもう少し美人にしたら、
バージニア・ウェストになる。


そんなことを考えていたら、机の上に英語のテストが配られていた。
困ったことにそれまで英会話など習ったことのなかったわたしには、
バージニアの説明がわかったりわからなかったりだったのだが、
この英語のテストの結果で明日からの授業のクラス分けがなされる
ということだけはわかった。


なんだ。こんな程度の問題かと思って取り組みはじめた英語のテストは、
問題を追うごとに加速度的に難しくなって、
制限時間内に座席を立って講義室を出ていく学生もあったというのに、
テストの終了時間が告げられたとき、わたしの答案用紙には、
まだ埋まっていない空欄が気が滅入るほどたくさん残っていた。


その後、英語研修に参加する学生全員が別の教室に集められ、
インタビュー用紙が配られた。仕事をしているか、それとも学生か?
どんな国を訪ねたことがあるか?好きな食べ物やスポーツ、趣味は? 


といった質問が書かれている用紙に初対面同士がインタビューし合って
聞いた内容を書き込んでいく。けれども、名まえを聞いてはいけない。
インタビューが終わった用紙は回収され、再びアトランダムに配布される。


自分の手もとに配られた用紙に書き込まれた回答に符合する人物を求め、
再び、初対面同士のインタビューがはじまる。
手もとのインタビュー用紙に合致する本人が見つかると、
名まえを聞いてインタビュー用紙に書き込むことができる。


けれども、それで終わりではなくて、今度は、別のだれかをつかまえて、
インタビュー用紙の内容もふくめてその人物を紹介しなければならない。
たどたどしい英語を駆使して、わいわい聞きまわっているうちに、
初対面の学生同士がじょじょに顔見知りになっていくのだった。


英語研修のコースに参加している学生は千差万別だった。
英語圏以外のヨーロッパの国々(スペインとドイツが多かった)、
中東や東アジアの国々から年齢もさまざまな学生が集まっていた。


秋からこの大学の学生や院生になる長期戦の学生もいれば、
自国の大学の夏期休暇を利用して個人やグループで
参加している大学生たちもいた。


また、大学を卒業して仕事をはじめるまでの期間や、
仕事の夏期休暇を利用して英語を習得しようと
参加した社会人の学生たちもいた。


みんながお国訛(なま)りの英語を話すので、
外見上の民族的な特徴と考え合わせると、
その人が何人かということがだいたい選定できるのだった。


けれども、何しろ手あたり次第に少しずつ声をかけ合うだけなので、
ひとりひとりの名まえと顔を一致させるのは、
とくに記憶力の乏しいわたしにとっては到底無理な相談だった。


とはいえ、体格の大きなヨーロッパ人に埋もれるようにして、
ちょこまか走りまわっていたわたしにも、
初対面の国際色豊かな学生たちの中にひとりだけ、
ちょっと気になる存在として印象に残った人物がいた。


それは、わたしと視線の高さもそう違わない
浅黒くて彫りの深い中東系の顔にムスタッシュ(口ひげ)をたくわえた
イラク人の2人組みの学生のひとりだった。





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学寮コートマウワーに落ちつく
2008/07/04(Fri)
イギリス滞在はじめての夜は、
アンがお母さんと2人で暮らす家に泊めてもらった。
翌日、アンはわたしをアベリストゥイスの街と海を見おろす
高台に建つ大学の学寮へ送りとどけてくれた。


この大学で夏のあいだ設けられている英語研修のコースに参加しながら、
実家の町と友好関係にあるアベリストゥイスの要人や機関を表敬訪問したり、
歓迎会やその他のイベントに参加することになっていた。


わたしの入寮したのは広大なキャンパス内に建ちならぶ学寮のひとつだった。
コートマウワーと名づけられたその学寮はいくつかのブロックに分かれていて、
個室が10室ほどのブロックごとに共同のキッチンとバストイレが備わっていた。


共同キッチンから何やら人の声がすると思ったら日本語だった。
同じブロックの住人にミチコさんとテルヨシさんという
日本人がいることがわかった。


ミチコさんはすらりと背が高く、
軽いウェーブのかかった長い髪を背中に波うたせている
清楚だけれど毅然(きぜん)とした雰囲気をただよわせる美人だった。
短大出たての客室乗務員志望。その春の就職はかなわなかったらしい。


テルヨシさんも見あげるばかりの長身で、
面差(おもざ)しはアイドル時代の川崎麻世に似ている。
一浪しても日本の大学に入れなかったのでイギリスに送られてきた
裕福な家庭のご子息らしかった。


ミチコさんとテルヨシさんのほかにも、ブロック内には、
将来、弁護士を志しているベンと名のるタイ人の男の子がいた。
秋から大学で法律を学ぶ前に、英語の実力を身につけるために
夏の英語研修のコースに出席するのだという。


英語研修の7月のコースは翌日からはじまることになっていたので、
わたしのあとにも、夜更けてから同じブロック内に
まだ何人かの入寮者があったようだったけれど、
その夜は、そのほかの同居人と顔を会わせることはなかった。


スーツケースひとつの荷解きを終えると、
レンガの壁にかこまれたシングルベッド、ロッカー、
机とイス以外には何もない殺風景な部屋の西側に
四角くくりぬかれた窓の風景に目がひきつけられた。


なだらかな丘のふもとにひっそりとたたずむ街なみのむこうに、
日没をのみこんでゆったりと横たわる大西洋が見おろせた。
おぼろにかすむ水平線がまだほのかにオレンジの光を宿している。


ところが、時間はすでに夜の10時をまわっているのだ。
こんな時間にあたりの風景がはっきりと見わけられるのが、
何とも不思議で受け入れがたいことのような気がした。


そのうえ、やがてあたりが暮色をおびはじめると、
刻々と移り変わっていく空と海の風景に、
わたしの目は完全に釘づけになってしまったのだった。


空の色が薄闇にとけ込んでいくのと入れかわりに、
空にうかぶ雲の連なりが水平線の彼方に没した
太陽の残光をたっぷりとふくみこんで
胸をつかれるような深紅の薔薇色に燃えたった。


そのうち薔薇色の雲もひっそりと色をひそめていくと、
藍色の水彩絵の具をにじませたような透明な色合いを見せながら
空全体がゆっくりと漆黒の闇のヴェールに包まれていく。


すると今度は、そのときを待ちかねていたかのように、
眼下にのびる海岸線にそって街の灯がまたたきはじめた。
そのようすは、まるで夜空から大西洋に流れ落ちた星くずたちが
海辺にうち寄せられてきらめいているかのようだった。


それが、わたしがイギリスではじめての夏をすごすことになった
ウェールズの海辺の小さな町アベリストゥイスとの出会いだった。
けれども、このアベリストゥイスでわたしを待ちうけていた
わたしの人生にとってかけがえのない幾多の出会いについては、
そのときのわたしにはまだ思いもおよばないことだった。





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